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昭和二十六年四月
鹿児島、宮之城線の機関車より、ふた回りも大きく感じた黒い機関車が
シュッシュッと白い蒸気を吐きながら、川内駅のホームに入って来た。 
十五歳の少年はその時胸がはちきれそうに感じた。
そしてこの汽車があの東京へ行くのだという思いと、希望と不安。 見送る
肉親の顔には、末っ子の旅立ちを涙顔で見送ってくれたことを昨日のように
覚えている。

七人兄弟の末っ子では外に出て働くしかないと心に決め、飯能で従兄の
経営する、M製作所に入所、翌日から朝五時起き夜十二時まで、自分の
本業と食事作り、掃除等が日課だった。 一ヶ月に月給参百円の食事付き
住込みだった。
毎日の辛さに幾度か田舎に帰りたいと思った。

辛かった年月も七〜八年経ち、いつしか金型職人となって社宅に入る事に
なり、朝が早いので朝食抜きでの暮らし、喰い盛りの自分にはとてもせつ
ないものだったが、しかし数年人間が一日二食でも生きられる事に自信を
得た。

昔二〜三年に一回帰省すると亡き母が、よく歌って聞かせた歌がある。
「成せば成る」の歌だ。
なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり。
この歌は、米沢藩主 上杉鷹山がよく歌った名句とされている。

職場結婚してからは一日三食喰えるようになり体も太ってきた。
そして、二十年働いたM社を退職して昭和四十五年には独立し、
また今までの倍働いた。
長女四歳、長男一歳をおぶって毎夜十二時まで働いた。
背中の子はトントンとプレス機械の音がリズムになりよく寝ていた。機械が止まると目が覚めて泣く。 そんな日々だった。
その機械を月賦で払い終わるとまた一台増やしの繰り返しで、人も入れて工場の体制を作って行った。

その後、工場が県道作りに掛かり、やむなく二キロ離れた現在の場所に八百坪を求め二百五十坪の工場が出来た。
三十五年経ち、社員四十名そして機械の台数も五十台を越して、先端技術産業の部品を作り出している。

二千六年七月吉日。 百二十坪の社屋を新しく増設した。
「職場環境を整えれば、より豊かな気持ちで仕事をしてもらえる」。 新社屋の広々と見晴らしのいい社員食堂や休憩室、先々の事業拡大を考慮して新社屋にエレベーターを取り付けるなど、21世紀に飛躍する会社づくりの種まきも欠かさない。

仕事に出来ないものは、なかった。努力した。 心の中で柿の種を植え、将来の事を思い若木に水を欠かさず、丹精込めて育てる。
秋が来て柿が食べられる。桃栗三年柿八年、職人を一人前に育てるにも十年は掛かる。
「毎日、心の中で柿の種を蒔く」  それが私の経営理念だ。

また、奉仕の心と触れ合いを大切とする。少しばかりの試作品や金型は時により、奉仕心で提供し、大きい柿となり、お得意様においしく召し上がっていただいている。
ゴルフ好きも転じ、お客様を接待することで人間関係を大切にし、それが深く会社の業績にも繋がっている。

七十歳になり、南の国、宮古島の十年前柿の種を蒔いた所に住みたいと考えている。
苦労を掛けて来た妻への思いやりと南国の人たちとの触れ合いで、長寿にあやかり、老後を二人で大切にしたいと願っている。 完

飯能精密工業株式会社 代表取締役会長 中山 住生
                                鹿児島県 薩摩川内市久住町出身



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